「良かれと思って」という恐ろしい言葉

私はミステリーが大好きで、特にアガサ・クリスティのファンなんですけど、クリスティの「ハロウィ-ン・パーティ」という作品に「良かれと思って・・・何という恐ろしい言葉だろう」というセリフが出てきて、なぜかずっと心に残っています。

 

ちょっとネタバレになってしまいますが、このセリフは以下のようなシチュエーションで語られます。

殺人現場である部屋から出てきた犯人を目撃したと思った女性。だが、その殺人犯(と思った人物)を庇って誰にもその事を話さなかった結果新たな犠牲者が出てしまい、女性は「良かれと思って」と泣きながら自分を責める。

その女性の涙ながらのセリフに対して発せられる心の声が「良かれと思って・・・何という恐ろしい言葉だろう」なんです。

 

この作品の中では、更にこういう記述も出てきます。

行きすぎた慈悲はしばしば、さらなる犯罪のもととなる。正義を第一に考え、慈悲を第二にしておけば被害者にならずにすんだはずの人間が、その犯罪のせいで命を落とすことになる」

         訳:山本やよい

       -「ハロウィ-ン・パーティ」

 

 

犯罪絡みに限らず、「慈悲のつもりで、又は善意のつもりで良かれと思ってやった事が、かえって災いを呼ぶ事がある」という事はよくあると思います。

私は自分をとても感情的な人間だと思っていて、だからこそ大事な判断をする時は、感情は一旦脇に置いて出来るだけ合理的に物事を考えるように心がけています(そのつもりです)。

 

こういう考え方は、もっと大きく拡げると、例えば大きな事件や災害時のトリア-ジなどにも通じるものがあると思います。

目の前で苦しんでいる人がいたら、とにかくすぐにでも助けたい。でも、そういう人が大勢いる時は、優先順位を決めて合理的に動かないといけない。場合によっては、すぐそばで血を流して痛がってる人を後回しにしないといけない事もある。

そういう場に立ち合った事がないので想像するしかないですが、凄く難しく辛い事だと思います。頭ではわかってても、助けて!と言ってる人を後回しにしないといけないって精神的にとってもキツいはず。すぐそこに居るのに、なんで助けてくれないんだ!と罵倒される事もあるでしょう。

それでも、より多くの人を救うためには必要な事。

 

 

「良かれと思って・・・何という恐ろしい言葉だろう」

旧J事務所の一連の対応を見てて、改めてこの言葉を思い出しました。

 

これまでの判断や対応、きっと、事務所上層部的には誠意のつもり、善意のつもりなんでしょう。

 

でも結果として、多くの人を傷つけ、巻き込み、苦しめてる。

詐欺という新たな犯罪も誘発してしまってるし。

本当の意味で解決するには、ちゃんと調べて全容を明らかにしないといけなかったのに、被害証言の検証はセカンド○○○と言われるのが怖くてなのか、ちゃんと調べると都合の悪い事が出てくるかもと思ったのか、とにかくその第一歩をすっ飛ばして事実認定、謝罪、補償と先走った結果、被害を訴えてる人だけでなくいろんな人の言ったもん勝ち状態になり、とうとう告発合戦の様相を呈してきて話の内容がどんどんエスカレートし、虚実入り混じって何が本当で何が嘘なのかわからないカオスな状態になっている。

当初は、所属タレントは「被害者かもしれない人たち」だったのに、真偽不明の告発合戦、暴露合戦が加熱した結果、今や「全員被害と引き換えに成功を手にした人たち、知ってて見て見ぬフリしてきた共犯者」と決めつけられ、過剰な迫害を受けている。人権を盾にした人権侵害が正義の美名の下に公然と行われている。

一方で、被害を訴えた人たちは、世論の追い風を受けて一部が暴走し、その行き過ぎた要求や傲慢な言動によって世論の信用を失いつつあり、後乗りで虚偽申告する人たちが現れた事も加わって、誰が本当の被害者で誰が話を作ってる人なのか混沌としてきて、疑いの目で見られ始めている。

どちらに対しても、憶測による誹謗中傷が行われている。

 

関わってる人たち、誰も救われてない。

 

 

「良かれと思って」

 

本当に恐ろしい言葉です。